AI の「良くなった気がする」を卒業する — 評価データセットの作り方と運用

AI を組み込んだ業務システムの開発で、最も多くのプロジェクトが足を取られるのは「精度をどう測るか」です。プロンプトを書き換えた、モデルを新しいものに差し替えた、検索の仕組みを調整した。そのたびに担当者が数件試して「前より良くなった気がします」と報告する。これを繰り返しているうちに、いつの間にか以前は正しく answered できていた質問が壊れている——こうした事態は珍しくありません。

この記事では、AI 機能の評価データ(テストケースの集合)をどう作り、どう運用するかを、中小企業の現場で実行できる粒度でまとめます。大がかりな MLOps 基盤の話ではなく、Excel 1 枚から始められる進め方を中心に扱います。

なぜ「数字で言える状態」が必要なのか

従来の業務システムであれば、仕様に対して動くか動かないかは明確でした。請求書の合計金額が合っているかどうかに「だいたい合っている」はありません。ところが AI 機能、特に大規模言語モデル(LLM: 大量の文章を学習し、自然言語で入出力を行うモデル)を使った機能は、出力が確率的に揺れます。同じ入力でも毎回まったく同じ文字列が返るとは限りません。

この性質が実務にもたらす困りごとは、主に次の 3 つです。

  • 改善したつもりが悪化している(リグレッション):ある質問への回答を良くするためにプロンプトを足したら、別の質問の回答が崩れる。目視では気づけません。
  • 検収の基準が決まらない:発注側も受注側も「どこまでできたら完成か」を言語化できず、納品が長期化する。
  • モデル更新に追随できない:提供元がモデルを更新したり、旧バージョンの提供を終了したりしたとき、乗り換えて良いか判断する材料がない。

評価データセットは、この 3 つをまとめて解決するための土台です。「正解はこれ」と決めた問題集を持っていれば、変更のたびに同じ問題を解かせて点数を比べられます。

評価データセットは何から作るか

ゼロから想像で作ろうとすると必ず手が止まります。実務では次の順序が現実的です。

1. 実際の問い合わせ・実際の書類から集める

社内 FAQ ボットを作るなら、過去のメール問い合わせやヘルプデスクの記録。請求書の読み取りなら、実際に受領した請求書。業務の現場に既にあるものが最良の素材です。ここで架空の綺麗な入力ばかり集めると、本番で崩れます。

2. 「難しい例」を意図的に混ぜる

評価データが簡単な例ばかりだと、点数が高く出るだけで役に立ちません。意図的に入れるべきものとして、次のような観点があります。

観点 内容 例(文書検索 AI の場合)
典型例 最も頻度が高い普通の入力 「有給休暇は何日もらえますか」
境界例 判断が分かれるきわどい入力 「入社半年の契約社員の有給は」
答えられない例 資料に情報が無い質問 「来年の賞与はいくらですか」
表記ゆれ 同じ意味で書き方が違う入力 「年次有給」「有休」「ゆうきゅう」
範囲外 この機能が扱うべきでない入力 雑談、競合他社の話題

特に重要なのが「答えられない例」です。資料に書かれていないことを AI がもっともらしく作文してしまう現象(ハルシネーション)は、業務利用で最も怖い失敗です。「分かりません、担当者にお問い合わせください」と返すのが正解であるケースを、評価データに必ず含めてください。

3. 件数は 30 件から始める

いきなり 500 件を目指すと着手できません。まず 30〜50 件。これだけでも、プロンプト変更で何件が壊れたかは見えます。運用を始めたら、ユーザーから苦情が来た入力をそのまま評価データに追加していく。この「失敗を資産化する」サイクルが回り出せば、データセットは自然に育ちます。

何を正解とするか — 評価軸の決め方

評価データには入力と「期待する結果」をセットで書きます。ここで「期待する結果」を完全一致の文字列にしようとすると破綻します。AI の出力は言い回しが毎回変わるためです。実務では、機能の性質に応じて次のように採点方法を使い分けます。

機能の型 採点のしかた 採点コスト
分類(問い合わせの振り分けなど) ラベルが一致するかの完全一致 低(自動化しやすい)
抽出(請求書から金額・日付を取る) 項目ごとに正解値と一致するか 低
検索・参照(社内文書 QA) 参照すべき文書が引けているか、記載に反する内容が含まれていないか 中
生成(文章要約、メール下書き) 必須要素が含まれるか、禁止事項が無いかをチェックリストで判定 高

分類と抽出は、正解値を決めてしまえば自動採点が可能です。ここは迷わず自動化してください。

問題は生成系です。要約文の良し悪しを完全一致で測ることはできません。現実的な方法は、正解文を書くのではなく「満たすべき条件」をリスト化することです。たとえば問い合わせ返信の下書き機能なら、次のような場面です。

  • 宛名が入力の会社名と一致している(必須)
  • 納期の日付が入力どおりである(必須)
  • 金額を推測して書いていない(禁止)
  • 敬体で統一されている(望ましい)

この形にしておくと、人が採点するときも判断がぶれませんし、後述する自動採点にも移行しやすくなります。

採点を AI にやらせる「LLM-as-a-Judge」とその限界

生成系の採点を人手で毎回やるのは、回数を重ねるほど現実的でなくなります。そこで、別の LLM に採点させる手法が広く使われています。英語圏では LLM-as-a-Judge(LLM を審査員として使う)と呼ばれます。採点基準と出力を渡し、「この条件を満たしているか、満たしていれば 1、満たしていなければ 0 で答えよ」と指示する形です。

これは有効ですが、導入する際は次の点を押さえておく必要があります。

  • 最初に人間の採点と突き合わせる:20 件程度を人間と AI の両方で採点し、判定が一致するか確認します。ここがずれたまま運用すると、信用できない数字を見続けることになります。
  • 基準は細かく分ける:「良い回答か」のような大雑把な問いではブレます。「金額が正しいか」「出典が示されているか」と一問一答に分解するほど安定します。
  • 判定役のモデルは固定する:採点側のモデルを変えると点数が動き、何が原因で改善したのか分からなくなります。

なお、評価結果が揺れることを前提に、同じ評価を複数回走らせて平均を見る運用も有効です。1 回の実行で 2 点上がった下がったを議論しても、多くの場合は誤差の範囲です。

評価データを扱ううえでの注意点

評価データは実際の業務データを含みます。ここで法令と社内規程の確認が必要になります。

顧客の氏名や連絡先が含まれる場合、個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)の対象となります。利用目的の範囲内での取り扱いか、外部の AI サービスに送信することが第三者提供や委託にあたらないか、社内の体制で確認してください。評価データは開発者が繰り返し閲覧・共有するものなので、本番運用のデータ以上に扱いが緩くなりがちです。氏名を「A 社 山田」のようなダミーに置き換えたマスキング版を評価用に作っておくのが安全です。

また、AI の開発・利用に関する国内の指針としては、総務省および経済産業省によるAI 事業者ガイドラインが公表されています。開発者・提供者・利用者それぞれの立場で留意すべき事項が整理されているため、社内の AI 利用方針を作る際の参照先になります。最新版の内容は各省庁の公開資料で確認してください。

加えて、取引先から預かった資料を評価データに含める場合は、秘密保持契約(NDA)の範囲を超えないかの確認が要ります。開発ベンダーに評価データを渡す場面では、ここが見落とされやすい箇所です。

小さく始める運用の形

最後に、実際にどう回すかの型を示します。特別なツールが無くても始められます。

  1. 表計算ソフトで 1 シート作る:列は「ID / 入力 / 期待する結果または条件 / カテゴリ(典型・境界・答えられない等) / 追加した日 / 追加理由」。
  2. 変更前に必ず全件走らせて点数を記録する:この「変更前の点数」が無いと比較できません。
  3. 変更後に全件走らせ、落ちたケースを個別に見る:総合点だけ見ていると、重要な 1 件が壊れたことを見逃します。カテゴリ別の点数も出してください。
  4. 苦情・失敗はその日のうちに追加する:後でまとめてやろうとすると、まず実行されません。
  5. 四半期に一度、データセット自体を見直す:業務ルールが変われば正解も変わります。古い正解を基準に最適化し続けるのは逆効果です。

開発を外部に委託する場合は、この評価データセットを発注側が持つことを強くおすすめします。仕様書よりも評価データのほうが、求める品質を正確に伝えます。検収条件も「評価データの正答率が X% 以上、かつ『答えられない例』での誤答がゼロ」のように、合意可能な形で書けるようになります。

まとめ

AI 機能の品質は、感想ではなく測定で管理するものです。要点を整理します。

  • 評価データは実際の問い合わせ・実際の書類から集め、典型例だけでなく境界例と「答えられない例」を必ず含める
  • 30〜50 件から始め、運用中に出た失敗を追加していけば十分に育つ
  • 分類・抽出は自動採点、生成は「満たすべき条件のリスト」で採点する
  • LLM による自動採点は有効だが、導入時に人間の判定と一致するか検証する
  • 実データを使う以上、個人情報保護法および NDA の範囲を確認し、マスキング版を用意する
  • 評価データセットは発注側の資産。検収条件と仕様の代わりになる

「良くなった気がする」で止まっているうちは、AI 機能は本番業務に載せられません。逆に言えば、評価データさえ持っていれば、モデルが新しくなっても、担当者が代わっても、品質を落とさずに改善を続けられます。まずは今扱っている業務の問い合わせ記録を 30 件、表計算ソフトに貼り付けるところから始めてみてください。